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第5話 新しい雇い主

Author: ポムの狼
last update publish date: 2026-10-25 06:05:36

第5話 新しい雇い主

 フィリスは、ウサギから外した鞍を壁のフックにかけて、隣に吊るしてあった銀の櫛を手に取った。

 櫛を持ったら、すぐにウサギが自分で近づいて来たので、梳かされることは嫌じゃないのだろう。

  フィリスは、そっとウサギの背中に櫛を入れた。柔らかい毛の感触が櫛を通して伝わってくる。ウサギもうっとりと目を閉じて、気持ちよさそうだ。

「ねぇ、ウサギさん。私もあなたのこと、ルミって呼んでいいかしら?」

 確かあの人は、この子のことをそう呼んでいた。

 フィリスの言葉にルミは、うんうんと頷く。人の言葉が分かっているみたい。

 フィリスは、丁寧にルミの全身に櫛を通した。梳かしてみて気がついたのだが、ルミの毛は、部位によって毛の質が違うようだ。

 背中は、絹のように艶のある長い毛。

 腹は、ふわりと暖かく羊毛のよう。

 首の下から胸にかけては、きめが細かく綿に近い。

 耳や顔周りの毛は、さらりとした肌触りだ。

 これなら毛の種類で、違う種類の糸や生地が作れそうだ。

 フィリスは、だんだん楽しくなってきて、ハーフアップにしていた自分の髪をひとまとめに結い直した。

 ルミは、毛を梳かされるうちに眠くなったのか、厩舎の地面の上に頭をもたげて寝てしまった。

 フィリスは、ルミが寝てからも手が止まらず、毛を梳かし続けた。

 梳かして取れた毛を部位ごとにひとまとめにして作業台に乗せていく。どんどん毛の塊は大きくなり、作業台には乗り切らなくなってきたので、一番たくさん獲れた腹の毛は、奥のルミの寝台に乗せた。

「ふふ、これだけで立派なクッションみたいね」

 寝台の上に乗った毛は、大きなクッションほどの大きさになり、まるで空に浮かぶ雲のようだ。それを見ているとなんだか乗ってみたくなってきた。

 フィリスは、履いていた靴を脱ぎ、寝台の毛に身を預けた。

 柔らかい! それにすごく暖かい!

 毛の上に体を預けて横になった。ふわふわの毛に包まれたみたいで、それだけで体の力が抜けた。

 目の前には、すやすやと寝息を立てる大きなルミ。その奥、厩舎の外には、月や星の光を反射させて優しく光る湖。

 はぁ、すごく素敵な場所。

 フィリスは、真っ白な毛に包まれながら自分の幸運を神に感謝した。

 少しだけ、休んでもいいよね。

 暖かな毛に包まれていると、自然と瞼が重くなった。

* * *

「おい、朝飯だ。起きろ」

「ご、ごめんなさい!」

 声が聞こえて、フィリスは咄嗟に飛び起きた。

 寝坊した! 溜まっていた注文をさっさとやってしまわないと、また叱られる!

 だけど目の前の景色は、見慣れたヴァイセン織物工房の作業部屋ではなかった。

 ルミがフィリスに近づき、柔らかい鼻先で頬を撫でるから、それですっかりと目が覚めた。昨日のことは、夢じゃなかったんだ。

「早くしないと、冷めるぞ」

 厩舎の入口には、昨日の男。相変わらず、黒い服を着ている。黒が好きなんだろうか?

「ごめんなさい、今行きます」

 フィリスは、慌てて靴を履いて、寝台から飛び出した。朝ごはんに起こしてくれるとは、新しい雇い主は随分と優しい。ヴァイセン織物工房にいた時は、早起きして家族の朝食を作るのも、洗濯をするのもフィリスの仕事だった。

 フィリスが厩舎から出ると、男はぱっと顔を背けて、着ていた黒いケープを脱いでフィリスに差し出した。心なしか男の顔が赤い。

「洗濯しておけってことですか?」

「違う。その格好で出歩くな」

 フィリスは、ここで初めて自分の恰好を見た。

 マリエッタに貸してもらった胸元の開いたドレス。寝ていたせいか肩ひもの細いリボンがはらりとずれ落ちていた。しかも昨日の夜に髪をひとまとめにしたから、隠すものが何もない。

 フィリスは、火がついたんじゃないかと思うほど顔が熱くなった。

 ばっとケープを受け取り、すぐに羽織った。

 ケープからは、ヒノキのような匂いがした。

「あの……見苦しいものをお見せいたしました」

 恥ずかしい……穴があったら、入りたい!

 男は、頭を掻きながら、「気をつけろ」とだけつぶやいた。

 男の後ろをついて行くと家と湖の前に木製のテーブルが出ていた。その上には、湯気の立つベーコンとニンジンのスープと目玉焼き、丸パンが並んでいて、フィリスは息を呑んだ。

「こ、こんなに立派な朝食」

 テーブルには、二人分の食事……もしかして、片方は、ルミの分かしら。

 フィリスは、どこか別のところに自分用の具のないスープがあるのではないかと、きょろきょろと辺りを見渡した。だけどそれらしきものは、どこにもない。しかもルミは、もうすでに湖の前に積まれたニンジンの山からニンジンをポリポリと食べていた。

「早く食べろ」

 男が先に座って、朝食を食べ始めた。残った一食は、間違いなくフィリスのための朝食だった。恐る恐る男の向かい側に座るが、怒られなかった。

「……いただきます。ご主人様」

 フィリスがそう言って食べ始めると、男は飲んでいたスープが変なところに入ったのかむせた。

「大丈夫ですか?」

 男は、ごほごほとむせこんでから、フィリスの言葉に顔を顰めた。

「なんだ、その呼び方は……」

「え……だって、ご主人様は、私をルミの世話係としてお雇いになったのですよね?」

「まあ……そういうことになるのか」

 男は、自分でやったことのはずなのに、腕を組んで首を傾げた。

「あの……ご主人様のお名前を教えてください」

 いつまでここに置いてくれるかは分からないが、誠心誠意働きたい。主の名前を知ることは、その第一歩だ。

「……シリルだ」

 シリルは、フィリスと目を合わせずに答えた。

 シリル様……

 フィリスは、その名前を何度も頭の中で反芻した。

「……お前の名前は、なんて言うんだ」

 シリルが頬を掻きながら聞いた。

「フィリス……です」

 フルネームは、フィリス・ヴァイセンだけど、ヴァイセンの名前は言えなかった。だってもう自分は、売られた身なのだから。亡くなった母の苗字をもう名乗れないのは、寂しいが諦めるしかない。

「フィリス、いい名前だな」

 フィリスは、その言葉でぱっと顔を上げた。

 褒められた……? ただの名前を?

 シリルが優しく微笑んでくれていた。彼にとっては、なんでもないことなんだろうが、フィリスの息を止めるには、それだけで十分だった。誰かにそんな風に言われたのは、初めてのことだったから。

 こんなに立派な朝食を出してくれて、名前まで褒めてくださるだなんて。

「……ありがとうございます」

 フィリスは、泣きそうになるのを必死に我慢して、スープを飲んだ。フォークで入っていたニンジンを口に入れるとニンジンの甘い香りと温かさでふっと肩の力が抜けた。

 だけど、心臓の鼓動だけがとくとくと早い。ついついシリルへ視線がいってしまった。

 パンをちぎる大きな手。あの手で撫でられたら、どんなにいいだろう。

「どうかしたか?」

 じっと見つめ過ぎていたのだろう。シリルが不思議そうに首を少しだけ傾けていた。

「……なんでもないです」

 この方にもっと褒められたい。

 フィリスは、初めて覚えた心臓の高鳴りの意味に気がつかなかった。

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